合併後2回目の市議選




市議選は、有権者に出すハガキの枚数が、2000枚。以下でもいいけど
ばって、せっかくやき、2000枚出したいやない
ばって名簿が無いと。
議員になって、ずっと言われとったとよ、宗像市の議員から。
「名簿ぐらい自分で整理しなさい!」と、ネ
名簿ソフトは買ったよ。ばって扱いきらんやったとよ

で、結局、若木台のテレデータで出そう、と。ばって、データは約10年前のよ
で、ちょっと待って!そげな古いとじゃイヤ!と言って、市役所でチェックよ。
合間合間やき、三日間かかったとよ。ショックは、それやないと。中身よ。

10年も経ちゃあそりゃあ代わっとうよ。
いろいろ原因もあろうばって、私世代の女性が世帯主になっとうとこが結構
知った人はおらんやったばって、思わず考えてしまったばい。
単身赴任?別居?それとも・・・・

私も考えなね~と。2人で細く長く生きる方法を。
7万円の年金じゃ食べていかれんもんね。65歳になったら、9万円にはなる予定やけど。

チラッとみただけやけど、年金下げるて言いようね~少ない年金は下げんどって
今度は、議会の外で、「生活できる年金を。消費税はとらんどって」  やね 
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 日記



11月2日、恒例の新婦人高齢者を囲むつどいが。
新婦人の会員さん・家族が囲まれたり囲んだりよ。
今年のメインは、先日NHKで放送されたシベリア抑留者の話を聞くこと。
戸田さんのお父さんもよ。ちっちゃい時から聞かされていたんだって。
事務所はみ~んなそっちに行き、ひとみちゃんが留守番よ。
もちろん戸田さんもお話を聞きにね。

楽しそうに話しているなあ    ツーショットといいたいけれど、知らない人との3人組から2人だけを


聞きたかったなあ、と思いながら日刊紙を。そしたらシベリア抑留の記事が。
すごい偶然やね~
記事スキャンするより、みんなに知ってほしかったきデータベースで
見れるまでまっとったと。まっとう間に忘れるとこやったけどね

じゃ、コピーするばい  

戦後65年/伝えよう侵略戦争の真実/
     シベリア抑留/上
/草の根食べ鉄道敷設2010.11.02 日刊紙 


 笹田克己さん(88)=三重県菰野町=は、2006年に地元の9条の会に招かれて抑留体験を話しました。以来、町主催の「平和祈念トーク」などさまざまな場所で、「人が人として扱われず死んでいく戦争、もう二度とあってはならない」と体験を語ってきました。■ソ連兵が銃を 笹田さんは1939年に中国・奉天の424部隊に入隊しました。45年8月8日、侵攻してきたソ連軍の戦車に降伏。終戦を迎えました。
 ソ連のナホトカ経由で日本に帰ろうと、手袋や靴下を詰めこんだ大きな荷物を持ち、ソ連の貨物列車に乗りこみました。
 しかし、列車は西へ向かい、丸2昼夜かかってエスベストコーバヤ駅に着きました。さらに一昼夜、飲まず食わずで歩き続け、山深い奥地の収容所に。
 鉄道のレールを敷設する労働。他の班が伐採した後に、日本の枕木の3倍ぐらいの太さの枕木を敷きます。大変なのが、長いレールを設置する作業でした。
 「10人ほどで息を合わせて持ち上げるのですが、みんな腹がすいて力が入らない。ソ連兵が『早くしろ』というように、銃を構えてせかしていた」 作業の途中で動けなくなる仲間もいました。
 「私たちには助ける余裕なんてない。そのまま置いていった。見殺しです」 1日16時間近く働いたのではないか、と言います。食事は、昼は200〓ぐらいの薄い黒パン、夜は黒パンか少々の雑穀のおかゆ。野草を探し、その根を缶で煮て食べました。1週間もたたないうちにやせ衰え、あばら骨が浮き出しました。厳しい労働の一方、十分な食事も、眠るときかぶる物もありませんでした。■零下30度以下 「朝、『なかなか起きてこない』と見にいくと、息絶えている仲間がいた。飢えと零下30度を下回る寒さで、最初の冬を越えて春を迎える間に、仲間が次々と死んでいった。18、19歳の未来ある青年ばかりだった」 地面が硬く凍って掘れないので、ソ連兵は服をはいだ死体を一輪車で裏山に運んで、谷底に捨てました。
 笹田さんは、レール敷設の労働を経て、山中の道路を行き来する自動車の監視活動に約1年8カ月、携わりました。収容所より山奥で、オオカミがうろつく場所。昼はソ連兵が1人来ますが、夜は一人っきりです。山小屋の中で火をたきながら、オオカミに襲われないかと、気が気ではありませんでした。
 その後、さらに、病人ばかりがいる収容所に転送され、「生きて日本に帰ることはない」と思っていた笹田さん。帰国が決まったときは驚きました。しかし、4年のシベリア暮らしで体はすっかり衰弱し、ナホトカの港から引き揚げ船に乗り込むときは、桟橋を四つばいではって上りました。
 「私は『生きる執念の強さ』で生き残ることができた」 戦後65年、抑留体験者が次々と亡くなっています。
 「私は『生かされている』と思っている。生きている限り、体験を語り続けていきたい」 (つづく)


戦後65年/伝えよう侵略戦争の真実/
シベリア抑留/中/
森林伐採、仲間は凍死2010.11.03  


 終戦の半年前、中国東北部のソ連国境近くで彗陽工兵隊に入隊し、爆弾を抱いて地面をはい、ソ連軍戦車へ向かう訓練を続けていた鈴木恒雄さん(83)=愛知県東海市=。「何度も死に直面した」と話します。■小枝が凶器に 19歳だった鈴木さんはソ連兵に森林伐採作業に携わることを命じられ、1945年9月に中国・牡丹江付近からソ連に入りました。すでに雪が降り始めていました。
 2人組で刃の両側に取っ手のついた長さ1〓ほどのノコギリを扱い、直径1〓以上あるマツをひきます。
 「いてつく地域では、なんでも〓凶器〓になる。鉄かぶともなく、直径5〓ほどの小枝でも、頭に当たれば死亡、手足に当たっても骨折です。腰まで雪につかっての作業で、木が倒れる方向が分からず、逃げ切れない者が続出しました」 人知れず雪の中になぎ倒され、凍死していた仲間もいました。鈴木さん自身も、伐採した原木を満載した木製ソリの荷崩れで4〓ばかり飛ばされたものの、下敷きにならずに助かった経験がありました。
 吹雪や冷たい風の日の外気は零下40度。顔にタオルを巻きつけてもまつげやまゆげが凍り、触るとポキポキ折れました。鼻の頭が凍傷で白くなり、手で摩擦してなおそうとすると激痛を伴いました。
 伐採した丸太を組んだだけの収容所はすき間だらけで、暖房は、出入り口と奥の壁の前のまきストーブ2台のみ。蚕棚のような2段ベッドの下段だった鈴木さんは、「毛布2枚にくるまっても寒く、隣の仲間と背中をくっつけ暖をとり合って眠りました」と、話します。
 三度の食事は1枚の黒パンと具のないスープのみ。「いつも腹が減って、つらかった。食事の分配の際は、みんな目の色を変え、見ていました」 空腹を満たすため、大きな松の実を拾って食べました。
 栄養失調、寒さ、伐採中の事故で、最初の冬を越えることなく、多くの仲間が亡くなりました。「私は若さと気力で、なんとか生き延びられました」 春になると、労働は農作業に。バレイショの植え付けのために地面を掘り起こし、あぜをつくりました。
 鈴木さんたちは野草を摘み、収穫し残されたくず芋を拾い、飢えを満たしました。■命あるかぎり 年月を経るに連れ、抑留者の食事内容や待遇は次第に改善されました。
 「忘れられないのは、私がソリから崩れ落ちた原木に吹き飛ばされたときのこと。一番先に助け起こしてくれたのは、ソ連兵でした。絶対的権力をもった天皇が支配していた資本主義国・日本の兵士との違いを感じました」 「人が人を殺す戦争は愚かなこと。戦争をしてはならない」と話す鈴木さん。小学校の元同級生や職場の元同僚に、抑留体験をつづった冊子、「しんぶん赤旗」の「侵略戦争の真実」や沖縄の米軍新基地建設計画に反対する行動の記事のコピーを郵送してきました。八十数人だった同級生の数は年々減り、この夏の同窓会の参加者は11人でした。
 「生きている限り、戦争反対の意思を発していきたい」 (つづく)

戦後65年/伝えよう侵略戦争の真実/
シベリア抑留/下
監視され続けた人生2010.11.04  


 終戦まで「関東軍」情報部で、補助憲兵として情報収集やスパイの取り締まりをしていた朝田巖さん(89)=宮城県大崎市=。ソ連・タイセットから、さらに55〓の奥地でシベリア第2鉄道敷設のための森林伐採の労働に従事。飢えと厳寒の中を生き延び、1948年10月18日、京都・舞鶴港に帰国しました。
 しかし朝田さんを待っていたのは、「シベリア帰り」としてのスパイ容疑でした。■港では尋問が 港に着いた夜、朝田さんは兵舎2階の一室に呼び出されました。写真と指紋がとられた後、「ハラダ」と名乗る日系2世の進駐軍兵士が、「捕虜になる時、偽名を語り、それがばれたことがあっただろう」「ソ連が黙っておまえを帰国させるわけがない。何か約束して帰ってきたはずだ」などと尋問します。朝田さんが、「何も約束していない」と否定しても、聞く耳をもちません。
 「ハラダ」は、子ども用の木のいすに腰掛けた朝田さんの太ももの上に向かい合うように馬乗りになり、「何を約束してきたんだ。正直に言え」と責めます。体重をかけて、朝田さんの背中をいすの背板に押し付けました。
 「最初は『何も約束していない』と否定していたのですが、後はただ黙って痛みに耐えるしかありませんでした」。朝8時すぎから夜10時近くまで、食事と少しの休憩を除き2日間、尋問が続きました。
 入隊前、中国東北部で日本人学校の教師を務めていた朝田さん。「一生、おまえを監視し続ける。二度と公職(教職)には就かせない」と解放されました。
 その後、朝田さんは、香川県の実家に3日間滞在。土建会社経営の長兄を岩手・平泉町に訪ね、経理の仕事を始めました。
 半月後、駐在所の呼び出しに応じて出向くと、3人の進駐軍兵士が待ち構えていました。
 「尋問はされませんでしたが、『ソ連から連絡があったら、私たちに知らせなさい』と、その方法を約束させられました」 翌49年4月、結婚し、同県陸前高田市に転居。しかし、そこにも連絡が入り、盛岡市に呼び出されました。以降、1カ月に1回、盛岡や仙台に呼び出され、抑留時のソ連部隊や兵舎の様子を聞かれました。進駐軍の本部が東京に移ってからは、一昼夜かけ都内に通いました。
 「呼び出しの内容は、家族にもだれにも話すな」と言い渡され、妻にも理由を述べず表情のない顔で出かける朝田さ
ん。妻のマレ子さんは、「とても不気味な感じを受けました」と振り返ります。■教職に戻れず 「呼び出しは今日で終わりだ」と告げられたのは、56年のことでした。
 「転居をくり返しても、呼び出しが追いかけて来る。ハラダに言われた『一生、おまえを監視してやる』の言葉が頭を離れませんでした。『いつ殺されるか』と常に不安でした」 その後、朝田さんは薬種商の資格をとり、のちに自分の店を持つまでになりました。
 「結局、教職に戻ることはできませんでした。いまも悔いが残ります。たくさんの人に死と悲しみをもたらし、人生を狂わせる『侵略戦争』。私もその被害者の1人だと思います」 (この項おわり) (川田博子が担当しました)




昨日朝、段差がなくなった場所を撮っておこうとデジカメを取りに。
写真を撮りだすと駅周辺にいた人たちと戸田さんとの話がはずむ。

デジカメを待っている戸田さんを隠し撮り(笑)    立ち話中・いろいろと要求が


「買い物の重い荷物を持ったままバスを待つのは大変。ベンチが・・・」と。
そういえば、事務所にこられる人たちは、ギリギリまで事務所にいてバスへ。
戸田さんからは「今日市役所に行かれるならどうしたらいいか・・・・」と。
市役所には行ったけれど福間庁舎。来週、津屋崎庁舎に行くか

ベンチが欲しい    ベンチがある津丸公民館前バス停

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 日記



朝立ちの時、戸田さんが「できてる、できてる」と指さす。
その先は花が寒そうに植わっているプランター。
なんができとっちゃろうか、とけげんな顔をしていると、また指さす。

このプランターの向こうよ段差があったのは。足はもう一人の陣営の人。今日は3組朝立ち     朝立ち後。段差解消箇所を。きれいになった所、もう一箇所あり


やっと、わかった、「できてる、できてる」。
戸田さんに来たアンケート。先週、戸田さん→ひとみ→区長さん、と。
月曜に区長さんが。火曜日は建設課が。
そして、今日、金曜日は若木台での朝立ち。で、戸田さんが

 日記



アンケートをお願いしたら、うちの近くの人から回答が。
駅、自由通路の段差に車が、と。
歩く時に押す車よ、シルバーカーというのかしら?
お名前書いていただいていたので戸田さん、早速一人で。
詳しく話を聞き、それをひとみちゃんが区長さんに。

土日は市役所お休み。区長さん、月曜日に要望書を市に提出。
ほんとは戸田さんを同行させて写真を撮りたかったけれど
「一人でいいばい」と、区長さん。
で、出すのはお任せして、現場での戸田さんを写真に。

これじゃ誰かわからんばい    顔は見えるばって・・・・・

これも顔が・・・・    顔はわかるばって、この体勢?姿勢?がね~

これがまあまあ?悪いといったって、これしかないばい    水たまりは小さいけれど、雨が降っている時は、大きな水たまりに。

それが昨日。そして今朝、市役所から見に。
そこで、ひとみちゃんと立ち話、となったとばって、職員も危ないですね、と。
昨日、ついでに直してもらえたらいいなあ、と水たまりの写真をメールで。
こちらは、だめみたい。どうしても、どこかに水たまりができるみたいよ。
おっきなお金を使えばいいっちゃろうばって。
ま、段差だけでも早く良くなればいいか 

 日記



人を乗せるたびに、荷物をポンポン車の後ろに。
デジカメもそれでしばらく行方不明。
やっと探し出し少しは撮ってみたけれど公開する時間無く後悔するばかり。
久しぶりに早めに帰りついたので、せめて写真だけでも公開し~よを

まず、1番に撮ったのがダチュラ。そして、「虹」のかけ稲
今年は異常に暑く、ダチュラは花が咲かないだけでなく、葉が
夫は、「おっきい葉やき、水分蒸発させないように自分で葉を落とし
とったい」と言うけれど、ほんとのところは

中間は葉が無く、涼しくなって伸びた新芽に蕾がいっぱい
この写真から1週間近く経つので、満開よ。玄関先まで匂うばい
近所迷惑かな
ひとみちゃんが好きでも、ご近所はわからんきね~

「虹」の田んぼは、今年はジャンボタニシに食われてどうなることかと
でも、掛けられるだけあったっちゃね~

今年最初で最後のダチュラの集団開花    ジャンボタニシから食べられはしましたが。かけ稲


次はもちろん、戸田さんよ。
週5日朝立ちしようとい、やっとデジカメで。
ま、写りはよくないけれどね。
駅舎1階のコンビにがampm(?)からファミリーマートへ。
店も変わるけれど、私たちの横に立つ人も変わるばい。

戸田進一さん    開店の朝。前回の開店時は生花だったけれど今回はボウルが積み上げられたもの?


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 日記



とにかく跡継ぎが決まったから早急にと、最初の決起集会。
昨日の打ち合わせでは、ひとみちゃんの出番なし。
ま、それでも会場借りたりお金払ったりは私やき他の人より早く会場へ。

受付に座り、なあも仕事がないのもちょっとさみしいね~と
急に統一選対の長が来て、「受付は誰かに代わって」と。
打ち合わせが始まると「福津市政と市議選はひとみさんに」と。

あわてたね~
そりゃ、まわるときの挨拶とか、街宣原稿を本格的に考えなね、と
決算委員会が終わったき思うちゃおったとよ。
ばって、なあも考えとらん時にイキナリやもんね。
街宣ならイキナリでもいいばって、福津市政よ。
ひとみちゃんの11年半を、また支離滅裂に言うたろうも。
帰ったら恐怖やね、何といわれるか

デジカメ行方不明で携帯で戸田さんを。
ものすごずれがあるね。顔があっち向いとった

あっち向きになってしまった


戸田進一さん、やっと職場に区切りがつけられそう。
来週から朝立ちよ

「コレを配ったら」と地区委員長が
尖閣諸島問題 日本の領有は
 歴史的にも国際法上も正当

 日本政府は堂々とその大義を主張すべき

紙もネットも写真がきれいやね~


膝の半月板がブチッと切れて痛み止め服用。
4週間で胃に激痛。
痛み止めを止めて胃薬に。
胃の痛みは時々弱いのがくる程度。でも足が
家に帰り着くと事務所まで来る元気が足には無い。
家で横になる。風呂で温める元気も無し。

昨日、戸田進一さんの選対会議で係りが決まりました。
ひとみちゃんが選対責任者よ。
そりゃ、私の代わりに出てもらうっちゃき私がなるべき、と
ばって、そげな仕事は今まで一回もしたことがないとよ
「今まで、そういう仕事はしたことがないでしょ?」と指摘され
「ハイ!補欠選挙でアレヨアレヨというまに候補者になり、今に」と
答えたと。その通りやもんね~

会議が終わって不動産屋へ行き手続きを。
候補者と責任者じゃ不安やき、会計担当とうちばちゃんも。
交渉はうちばちゃんが。
さすが、何回も事務局長を務めたことがあるだけに
あとは、家主さんが貸してくれるかどうかだけやね

それにしても何もわからない同士の選挙よ。
大丈夫かね、と
戸田さんとは大学が同期の宗像市議・末吉さんが「手助けするよ」
と、言ってはくれたけど。がんばるしかないか
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今日、県委員会でもOKがでたそうです。
ブログで公表したいので経歴を訊いたのだけれど、
みんなは「赤旗まつり」に間に合わせてよ」と口々に。
ブログって日記やき今日新鮮な気持ちのうちに書きたいのに。
ま、しょうがないか。みんな決まってホッとしているのとうれしいのと
選挙になれば興奮状態になる人もいるし、本人だけは冷静やったね~
これで母も安心することでしょう。
当分は親の介護と足のリハビリです。
私のほうが介護されたりして 

戸田進一さんです。
  職場は、どこかの生協です。はっきり訊いたらまた、報告します。
  少しは知っとうばって正式名称を知らんとよ

  4人のこどものお父さんです。
  4番目のこどもさんは、赤ちゃんの時、あゆみ保育園に。
  2番目のこどもさんは、うちの長男と仲良し。劇場仲間です。

市の職員からは、今ごろ新人出しても落ちますよ、と。
絶対に落とすわけにはいかんと

ぜひ、みなさん福津のお知り合いに、
お知り合いがおられない人は、「福津に知り合いはおらんね?」と
政策などは今から作っていきますが、声をかけられた人とそうでない人
は、ビラの読みが違うもんね~

国に借金があるき、市民の要求を政府にもっていったらいかん、
議会人として、してはいけないこと、な~んていうような議員さんが
多いいと。落とされんとよ。

 日記





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