8日から今日9日へ、いろいろな思いが
8日の0時過ぎは まだ事務所にいました。
全医労の退職者会総会の出席届と、元支部長の偲ぶ会の
出席届を書いていました。しばし、突然の訃報を思い出し.......
なにか家に帰りがたくそれからしばらく事務所に。
8日は、朝から事務所に詰めていました
自分の選挙の時でもこんなにしなかった!投票日のお仕事。
突然、家から電話。訃報のFAXありと。
訃報の方は党員でしたので、地区委員会に電話。
もう少し詳しく知りたかったからです。
副委員長が出ました。「どこで?何時?どうして?」と、私。
あんなに元気だったのに。FAX1枚では信じられませんでした。
「○○会館で。6時からお通夜」
「○○会館てゆうたら、あんたたちが結婚式挙げたとこやない?」
「そうたい」(昔、結婚式場。今、葬祭場です。)
「6時には間に合わんばい。葬儀は?」「家族だけで」
ずっとお世話になっています。明るくていい おじちゃんでした。
大久保さんの用事も片付け、1時間遅れでかけつけました。
みなさんテーブルを囲んで食事中でした。
おじちゃんの顔だけ見て帰ろうとしました。
靴を履いて、ふっと前をみると父の顔が。
あらためてよく見ると、ほとんど知った人たちばっかり。
黙って帰るわけにもいきません。
あいさつだけでも、と靴を脱ぎました。
父が、「場所を変わろう。両巨頭にはさまれるともいいやろ。食べて
いったら」と言います。
おなかぺこぺこの私は、あつかましく夕食分くらいよばれました。
遠慮会釈もない父たちの会話が聞こえます。
「○○くんみたいに、書いとかな」と、遺言などの話が。
80いくつかの人たちのことばです。切実さがこもっています。
党歴でいえばまだ、60そこそこですが。
私は父に、「新に書かんでも、書いちゃあ中から選んでやるよ」と。
事務所に戻り、ラジオで選挙速報を
「ヤッタくまがいさん
」と、すぐメールを。
あとは、なかなかわからず、遅くなって、半信半疑で倉ちゃんにも
メールを。東区の残念な結果もすべて聞くと、朝が近くなりました。
やっと、通夜の席でもらったものに目を
「遺言的自分ノートの原稿」A4サイズ2枚に
昨年、こどもさんたちから、喜寿の祝いをしてもらったことから
始まり、葬儀のことから、その後のことも、一つ一つ。
最後を少し紹介すると
77才の喜寿が過ぎてしまった。同期の友人と話したことなんだ
けど「せいぜいあと5年だね」と。自分ノートの原稿にもとずい
て、親戚、友人への連絡先、その人へのメッセージ、通帳、印鑑
の所在など、「大切な人に遺す自分ノート」に記録して、一番近
い○○、○○○に渡しておこうと思う。
時間がとれれば、自分史を書きのこしたいと思っている。
2007年2月15日
読み終えると、ひとりでに涙が。
今朝、母から電話が(東区。私のこどもだけでなく、親類・知人も)
「力が落ちた。みんなに頼んだとに」と。
私は、ある程度予想できていたので、落ち込みはしなかったが、
母のそのことばをを聞くと、「ガッカリさせてしまったなあ」と、
今度は、ヤエ子さんの病院から
「先生から病状の説明があります」と。
約束の16時に行き、説明を聞き、「よろしくお願いします」と。
酸素吸入中の、一段と小さくなった、ヤエ子さんに久しぶりに歌を。
「明日も来るきね」と声をかけ、病院をあとにした。
いつ、何があってもおかしくない、だんだん悪くなるばかりです、
と、いうことを、病状、という形で聞いた。
6日、「写真がありました」とヤエ子さんの写真が戻ってきた。
1年前の4月7日撮影、「春眠暁を覚えず、介護施設にて」と記入
されている。議会広報の一般質問につけたものだ。

まもなく倒れて23年になろうとしている。この1年で、こんなに
変わり果てるものかと、またひとりでに、、、。
介護は悔いがのこることばかり
夫の祖母の時は、10数年前の衆院選、候補者最後の訴えが終わると
父から電話が。こどもたちが、父に電話し、父が地区委員会に電話
してきた。家に帰り、救急車を呼び、そのまま、4日間付き添った。
102歳で、くも膜下出血。かかりつけの先生は「仕方のないこと」
と、言ってくれるが、私の気持ちは仕方ないではすまない。
そして、ヤエ子さんである。
昨年は、入院、選挙などで、ほとんど夫におまかせである。
あれだけ、朝夕行って、食事の介助をし、いっしょに歌を歌っていた
のに、である。
何度もくり返しユズリンの声が
どんな時にも ぼくがいるよ
きみのとなりにいるよ
そばにいるよ ぼくがいるよ
遠い空より近く
作詞/作曲:柚 梨太郎
(くりかえし部分のみです)
昨日の娘の土産、ユズリンのCDが、楽しく、ときにはしっとり
今日は、合間合間に朝からこのブログを
元支部長の突然の死、気のいい先輩の突然の訃報、母たちのこと。
ともすると沈みがちになる心を、ユズリンが落ち着かせてくれる。
8日の0時過ぎは まだ事務所にいました。
全医労の退職者会総会の出席届と、元支部長の偲ぶ会の
出席届を書いていました。しばし、突然の訃報を思い出し.......
なにか家に帰りがたくそれからしばらく事務所に。
8日は、朝から事務所に詰めていました
自分の選挙の時でもこんなにしなかった!投票日のお仕事。
突然、家から電話。訃報のFAXありと。
訃報の方は党員でしたので、地区委員会に電話。
もう少し詳しく知りたかったからです。
副委員長が出ました。「どこで?何時?どうして?」と、私。
あんなに元気だったのに。FAX1枚では信じられませんでした。
「○○会館で。6時からお通夜」
「○○会館てゆうたら、あんたたちが結婚式挙げたとこやない?」
「そうたい」(昔、結婚式場。今、葬祭場です。)
「6時には間に合わんばい。葬儀は?」「家族だけで」
ずっとお世話になっています。明るくていい おじちゃんでした。
大久保さんの用事も片付け、1時間遅れでかけつけました。
みなさんテーブルを囲んで食事中でした。
おじちゃんの顔だけ見て帰ろうとしました。
靴を履いて、ふっと前をみると父の顔が。
あらためてよく見ると、ほとんど知った人たちばっかり。
黙って帰るわけにもいきません。
あいさつだけでも、と靴を脱ぎました。
父が、「場所を変わろう。両巨頭にはさまれるともいいやろ。食べて
いったら」と言います。
おなかぺこぺこの私は、あつかましく夕食分くらいよばれました。
遠慮会釈もない父たちの会話が聞こえます。
「○○くんみたいに、書いとかな」と、遺言などの話が。
80いくつかの人たちのことばです。切実さがこもっています。
党歴でいえばまだ、60そこそこですが。
私は父に、「新に書かんでも、書いちゃあ中から選んでやるよ」と。
事務所に戻り、ラジオで選挙速報を

「ヤッタくまがいさん

あとは、なかなかわからず、遅くなって、半信半疑で倉ちゃんにも
メールを。東区の残念な結果もすべて聞くと、朝が近くなりました。
やっと、通夜の席でもらったものに目を
「遺言的自分ノートの原稿」A4サイズ2枚に

昨年、こどもさんたちから、喜寿の祝いをしてもらったことから
始まり、葬儀のことから、その後のことも、一つ一つ。
最後を少し紹介すると
77才の喜寿が過ぎてしまった。同期の友人と話したことなんだ
けど「せいぜいあと5年だね」と。自分ノートの原稿にもとずい
て、親戚、友人への連絡先、その人へのメッセージ、通帳、印鑑
の所在など、「大切な人に遺す自分ノート」に記録して、一番近
い○○、○○○に渡しておこうと思う。
時間がとれれば、自分史を書きのこしたいと思っている。
2007年2月15日
読み終えると、ひとりでに涙が。
今朝、母から電話が(東区。私のこどもだけでなく、親類・知人も)
「力が落ちた。みんなに頼んだとに」と。
私は、ある程度予想できていたので、落ち込みはしなかったが、
母のそのことばをを聞くと、「ガッカリさせてしまったなあ」と、

今度は、ヤエ子さんの病院から

「先生から病状の説明があります」と。
約束の16時に行き、説明を聞き、「よろしくお願いします」と。
酸素吸入中の、一段と小さくなった、ヤエ子さんに久しぶりに歌を。
「明日も来るきね」と声をかけ、病院をあとにした。
いつ、何があってもおかしくない、だんだん悪くなるばかりです、
と、いうことを、病状、という形で聞いた。
6日、「写真がありました」とヤエ子さんの写真が戻ってきた。
1年前の4月7日撮影、「春眠暁を覚えず、介護施設にて」と記入
されている。議会広報の一般質問につけたものだ。

まもなく倒れて23年になろうとしている。この1年で、こんなに
変わり果てるものかと、またひとりでに、、、。
介護は悔いがのこることばかり
夫の祖母の時は、10数年前の衆院選、候補者最後の訴えが終わると
父から電話が。こどもたちが、父に電話し、父が地区委員会に電話
してきた。家に帰り、救急車を呼び、そのまま、4日間付き添った。
102歳で、くも膜下出血。かかりつけの先生は「仕方のないこと」
と、言ってくれるが、私の気持ちは仕方ないではすまない。
そして、ヤエ子さんである。
昨年は、入院、選挙などで、ほとんど夫におまかせである。
あれだけ、朝夕行って、食事の介助をし、いっしょに歌を歌っていた
のに、である。
何度もくり返しユズリンの声が
どんな時にも ぼくがいるよ
きみのとなりにいるよ
そばにいるよ ぼくがいるよ
遠い空より近く
作詞/作曲:柚 梨太郎
(くりかえし部分のみです)
昨日の娘の土産、ユズリンのCDが、楽しく、ときにはしっとり

今日は、合間合間に朝からこのブログを

元支部長の突然の死、気のいい先輩の突然の訃報、母たちのこと。
ともすると沈みがちになる心を、ユズリンが落ち着かせてくれる。