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連想ゲーム???

つながりあいコンサート、ごいっしょに

 もう、42年もなるっちゃね、子ども劇場ができてから
 財政的にも大変やき、コンサートを開くって
 場所が「風の子保育園」よ
 「風の子保育園」っていえば、私が大好きなところで、ごろっと
 昼寝をしたい場所よ。したことはないけどね

つながりあいコンサート


風の子、といえば

 うちの近所から、せいこちゃんのこどもたちが(今は、一人やけど)
 せいこちゃんが「風の子日記」を雑誌「ちいさいなかま」に

古いけど「風の子日記」


「ちいさいなかま」、といえば

 読者のページの挿絵をせいこちゃんが

読者のページ


せいこちゃんといえば

 私の最初の選挙から、ひとみちゃんカットを
 最初の選挙って補欠選挙で、突然で、あれよあれよと終わってしまい
 しかも、いろいろな書類は手元に残らず、よ
 せいこちゃんの原画は、もちろん
 10年経って、他の書類が、少しだけ、地区委員会から出てきたと
 今から、お世話になった人たちに、お礼を、と、思うとばって
 覚えとんしゃあやろかね~

ひとみちゃんカット


カット、といえば

 カット集がまだ、机の下の奥のほうです
 年末の市議選の時、うちばちゃんがかたづけてくれたま~んま
 で、しょうがなく、古いちいさいなかまから、こんなふうに
 もちろん、せいこちゃん作です(ごめんなさい

こんな風に使いました


カットといえば

 台風で久しぶりにテレビを
 ニュースを見ていたので、日刊紙のカットが、おもしろかった~

カット、といえば


せいこちゃんの長女は、うちの近くの小学校の1年生です。
入学式に慌てて駆け込んだトイレが終わったら、1年生が今度は
○○!と呼びかけて振り向いたところを
ちょっと慌てたき、切れとうとこがあるばって、バッチリよ
事務所に貼っとうき、見にこんね、ピカピカの1年生を



昨日は、市役所に3回

全部は書ききらんかも、何で行ったか!だけはしとこ


第4回福津市都市計画審議会 ボーチョー 9時30分から

 また、失敗しました。あんまり意見もでらんやろう、と、ノートを
 持参せず。
 ほんなごとは、事務所に取りいくとが面倒やっただけやけどね。 
 会議次第(A4)が裏表びっしりよ。
 どこからどこへ読んでいいのか、書いた本人ですら
 しかも、昼近くまでよ。途中で5分休憩が入ったほどよ。
 めったに傍聴も行かんばって、休憩が入ったちゃ、記憶にないね~


福祉課に要請文を持って・13時15分~

 「孤独死や餓死」がないように、とお願いにいったとよ。
 福津生活と健康を守る会で。顧問の(すごかろ?肩書きだけは)私は
 係よ。
 端に座って何枚か
 終わって突然「カメラ!」て言うもんやき慌てたばい。
 渡すとこを撮るとやったげな。
 デジカメはようと扱いきらんき、最後の2枚は逆光でクラ~く


苅目川へ。市役所で植木さんと待ち合わせ15時~

 この前も床下浸水。私が議員になった年(かな)は、床上浸水。
 30年もここに住んで、開発されてからは、時々家が浸かるとよ。
 福津じゃらちあかんもんやき、とうとう、いつも駅でがんばりよう、
 植木さん(日本共産党宗像市議)に相談が。


さすがに足がおかしくなり、座りたい

 まだ出かけたいとこはあったけど、足を休ませることに。
 電気鍋でなすびを焼き焼き、ね。
 で、夕食を終えて、ふくとぴあへ。

忘れとったけど、苅目川の帰りに、砂丘葡萄園によったと。
写真を撮らせてもらったけど、なかなかいい雰囲気よ。峠の茶屋みたい
でね。ものすご感動したき、いっぱい書いとったとよ。
それが、保存せん前にお客さんがきて、話しよううちに消えてしもうたと。
久しぶりやったね~

♥ More..Open


大津留さんのブログで、こどもの時から、名前はよく知っていた
「瀬長亀次郎物語」がテレビで放映されたことを知った。
あらためて、1人の日本人として、今、何をすべきか、思いを強くする。
ぜひ、再放送を見なければ、と思うし、みなさんにも見てほしい
番組名は、もちろん、「瀬長亀次郎物語」ではない

NHK「そのとき 歴史が動いた 忘れられた島の戦い~沖縄返還の軌跡」

以下、大津留さんのコピーです。




不屈(瀬長亀次郎の生涯)

先の記事で紹介しましたその時歴史が動いたの「瀬長亀次郎物語」ともいえる

NHK「そのとき 歴史が動いた 忘れられた島の戦い~沖縄返還の軌跡」

を自宅への帰路ラジオで聞きました。
カメさんのすごい戦いの人生に改めて感動しました。
お玉さん ではないですがこういう番組を作るNHKには受信料を払っても
いいかなと思わせる番組でした。

瀬長さんの人生の背景には栄養失調でなくなったお母さんがあり全く
天皇が「もう一成果挙げて」と言わなければ全く不要だった沖縄戦での
死者12万人があり、戦後4年だけで150位もあった婦女暴行事件があり、
先祖代々の土地を1坪コーラ以下の賃借料で奪われた多くの沖縄県民の
苦しみがあります。

「軍政府は猫で、沖縄は鼠(ねずみ)である 猫の許す範囲しか鼠は遊べ
ない」と米軍政府幹部が行ったような状況が1972年5月15日まで沖縄に
あった。
わずか35年前まで沖縄は人間ではなく鼠だった。

私は特に「瀬長さんが那覇市長に当選すると米軍が那覇市への補助金と
融資の打ち切り、預金凍結を行うが市民は納税で瀬長を助けようとし
瀬長当選前の納税率が77%だったのに対し当選後は86%にものぼり、最高
で97%にもなった」という事実に感動しました。

人間の善意と不屈性に打たれました。

番組で流れた瀬長さんの言葉を紹介します。

「戦争は終わったが、地獄は続いていた」

沖縄が取り残されることに危機感を持った瀬長の言葉

「セナガ一人が叫んだならば、五十メートル先
まで聞こえます。ここに集まった人が声を揃えて
叫んだならば、全那覇市民まで聞こえます。
沖縄の七十万の民が声を揃えて叫んだならば、
太平洋の荒波を越えて、ワシントン政府を動かす
ことができます。」


後に瀬長が獄中でのアメリカ軍の様子を語った音声

「アメリカが今までの事をやらんと、それ誓え
ば、出すと言っておりましたがね、そうなると、
県民に対する裏切りになる、断固としてはね
つけて。」


出獄前日の日記の言葉

「残りの生命を大衆のためにささげることを
固く誓わなければならん」


那覇の大会での瀬長の言葉

「一リットルの水も、一握りの砂も、一坪の
土地もアメリカのものではない。空気は我々が
ただで吸わせている。そのうえ、今回の新たな
土地強奪である。我々は対米非服従運動を
起こさねばならない。」


那覇市長選挙で瀬長が訴えたこと

「異民族の永久支配を認めるか、 一坪の土地も
異民族の手に渡さず、沖縄の祖国復帰を実現
するか、市長選挙は県民がそのどちらを選ぶ
かの機会と権利を与えられている。」


瀬長の国会での言葉

「この沖縄の大地は、再び戦場となることを
拒否する。基地となることを拒否する。あの紺碧の
空、サンゴ礁に取り囲まれて、あの美しい海。
沖縄県民の手に返って初めて平和な島が、沖縄
県の回復ができるんだということを二十六年間
叫び、要求し続けてきた。」


番組では沖縄人民党委員長・日本共産党副委員長であったことは触れて
いませんでした。


瀬長亀次郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

[編集] 経歴
1907年、沖縄県豊見城村我那覇に生まれる。沖縄県立二中(現沖縄県立
那覇高等学校)、東京・順天中学(現順天中学校・高等学校)を経て
旧制第七高等学校(現鹿児島大学)に進んだが、社会主義運動に加わっ
たことを理由に放校処分となる。2年間の兵役を務めた後、1932年に丹那
トンネル労働争議を指導して治安維持法違反で検挙され、懲役3年の刑で
横浜刑務所に投獄される。その後、召集されて砲兵として中国へ派兵する。

戦後、名護町助役、沖縄朝日新聞記者、毎日新聞沖縄支局記者を経て、
1946年にうるま新報(現琉球新報)社長に就任。在任中、沖縄人民党の
結成に参加したことにより、軍の圧力で同社長を辞任。沖縄人民党書記
長となり、1950年、沖縄群島知事選挙に出馬するが、準備不足もあり
当選者の1割にも満たない得票数で落選。しかし、1952年の第1回立法院
議員総選挙では最高得票数でトップ当選を果たす。この選挙後に開催
された琉球政府創立式典で宣誓拒否したことで占領軍から睨まれること
となる。

1954年、米軍は沖縄人民党事件で、瀬長をたった1人の証言を証拠として
弁護士なしの裁判にかけ、懲役2年の刑の判決をして、再び投獄された。
出獄後、1956年の那覇市長選に出馬する。対立候補から選挙妨害を受け
るが、まったく保護されない無法選挙を戦うことを余儀なくされるが、
大方の予想を覆し当選を果たす。だが占領軍出資の琉球銀行による那覇
市への補助金と融資の打ち切り、預金凍結の措置に遭い市政運営の危機
に見舞われるが、市民は納税で瀬長を助けようとし、瀬長当選前の納税
率が77%だったのに対し当選後は86%にものぼり、最高で97%にもなった。
そのおかげで自主財源での市政運営できるようになり危機を脱する。
これに対し占領軍と沖縄自民党は7度にわたる不信任決議を提出するが、
いずれも不発に終わる。しびれをきたした占領軍は布令改定で、1954年
の裁判を理由に、瀬長を追放し被選挙権を剥奪した。市長在任期間は
一年足らずであったが、那覇市政をめぐる米軍との攻防は、瀬長に対
する沖縄県民の絶大な支持を呼んだ。

1970年の沖縄初の国政参加選挙で衆議院議員に当選する。以降7期連続
当選を果たした。日本共産党に所属し共産党副委員長などを歴任。1990
年、政治活動を引退する。2001年10月5日、肺炎で死去。享年94。

ジュリオ=キュリー賞、那覇市政功労賞、県自治功労賞、沖縄タイムス賞
(自治賞)を受賞。那覇名誉市民、豊見城名誉村民。





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