㋺科学的社会主義とは
─ 非常に簡単に。
世界観(ものの見方、考え方)
とおい昔から、人間の考え、世界のとらえ方には大きくいって二つありました。唯物論か観念論か、弁証法か形而上か、と。マルクス・エンゲルスは、それらを深く学び、現実の自然、社会を研究して唯物弁証法(弁証法的唯物論)に到達しました。
唯物論者というと、なにか情のない人間のように考える人もあるかも知れませんが、不破哲三さんは、つぎの質問に「イエス」と答えた人は唯物論者、と言っています。
一、あなたは、人間が生まれる前に地球が あったことを認めますか。
二、あなたは、人間は脳の助けを借りて考えていると思いますか。
三、あなたは、他人の存在を認めますか。
これは、非常にやさしいクイズですが、ものごとをとらえる場合の基本だと思います。
弁証法、これは世界をありのままにとらえるとらえ方で、不破さんは、つぎの三つを大きな特徴としてあげています。
一、ものごとを世界の全般的な連関のなかでとらえる。
二、すべてを生成と消滅、運動と変化のなかでとらえる。
三、固定的な境界線や「不動の対立」にとらわれない。反対物への
転化も視野にいれる。
この唯物弁証法的な考えで人類社会を見ることを史的唯物論といいます。
史的唯物論では、人間社会をみるとき、まず、人間が生きていくための衣食住─その生産と生産関係を土台と見ます。つまり、社会の土台は経済ということです。この経済の仕組─生産関係で、社会は大きくわけて次のように発展してきたし、する、としています。
原始共産制─奴隷制─封建制─資本主義─社会主義
※ 私は、これを書く前に福間中学校で
使っていた社会の教科書を通読して
みましたが、この史的唯物論の立場が
うかがわれる内容でした。つまり、
史的唯物論は常識になってきている、
というわけです。
経済学
マルクス主義というと、多くの人が経済学と考えているほど、経済学は、科学的社会主義にとっては要になる分野です。マルクス・エンゲルスは、現実の資本主義社会を研究することによって、社会主義社会への道に到達するのですから。
私の理解の範囲を極めて単純化してのべます。
資本主義社会(※資本主義という呼び名の名付け親はマルクスです)は市場経済です。商品を売買します。そこでどうして利潤が生れるか、十九世紀はじめの経済学者は誰もそれを見つけることができませんでした。それを発見したのがマルクスです。利潤の源泉は人間の労働力にあると。
資本主義社会では、人間の労働力も売買の対象になります。資本家は、労働者がくらしていくのに必要な金を支払って労働者を雇います。ところが労働者は働くことによって自分が生活していくために必要な価値(賃金)以上のものをつくりだします。この差を剰余価値といい、これが資本家の利潤になるのです。
図で説明します。
┃←労働者が一日につくりだす価値→┃
a─・─・─・ー・-─b─ー・─・─・─c
必要労働時間(a) | 剰余労働時間(b)
賃金として支払れる| 資本家の利潤になる
|
a分のb を剰余価値率といい、搾取の度合いを示します。(私が二〇年以上前に読んだ本では、ある学者が一九五〇~六〇年代の日本の搾取率は三倍くらいになる、と計算していました)
資本主義社会の「資本」は、個々の人間の意志にかかわりなく、「資本の魂」として最大限の利潤を追求し、「生産のための生産」に走ります。剰余価値率を高めるため、どんなことでもしてきます。(いまの日本を見るとよくわかります。賃金を下げるため正社員をへらし、パート、派遣、偽装請負──結婚もできない、ワーキングプアが異状でなくなる──)
人間が人間として真っ当な生活をすることができなくなる、なのに「資本」は「生産のための生産」に走り、「恐慌」をひきおこします。
未来社会論=社会主義
欲しくてもまずしいが故にものを手にすることができない人をどんどんつくり出しながら、片一方では利潤追求のための生産のための生産に走る、そこでおこる恐慌、これは、利潤追求第一の資本主義体制では、その「生産」を人間全体の幸せのためにコントロールすることができないことを証明している。
どうしたらよいか、利潤第一の生産でなく、人間とその社会全体の幸せのためにの生産にかえることが必要だ。そのために、工場や機械などの生産手段を社会全体のものにしていこう、これを土台に人間は「各個人の完全で自由な発展を基本原理とする」共同社会をつくることができる。搾取され、組織されている労働者階級こそ、この共同社会をつくる力だ。簡単にいうと、こういうことになりますが、この「社会主義」については、日本共産党綱領の説明のとき、よりくわしくのべたいと思います。
「はじめに」終わりーーーひとみ
─ 非常に簡単に。
世界観(ものの見方、考え方)
とおい昔から、人間の考え、世界のとらえ方には大きくいって二つありました。唯物論か観念論か、弁証法か形而上か、と。マルクス・エンゲルスは、それらを深く学び、現実の自然、社会を研究して唯物弁証法(弁証法的唯物論)に到達しました。
唯物論者というと、なにか情のない人間のように考える人もあるかも知れませんが、不破哲三さんは、つぎの質問に「イエス」と答えた人は唯物論者、と言っています。
一、あなたは、人間が生まれる前に地球が あったことを認めますか。
二、あなたは、人間は脳の助けを借りて考えていると思いますか。
三、あなたは、他人の存在を認めますか。
これは、非常にやさしいクイズですが、ものごとをとらえる場合の基本だと思います。
弁証法、これは世界をありのままにとらえるとらえ方で、不破さんは、つぎの三つを大きな特徴としてあげています。
一、ものごとを世界の全般的な連関のなかでとらえる。
二、すべてを生成と消滅、運動と変化のなかでとらえる。
三、固定的な境界線や「不動の対立」にとらわれない。反対物への
転化も視野にいれる。
この唯物弁証法的な考えで人類社会を見ることを史的唯物論といいます。
史的唯物論では、人間社会をみるとき、まず、人間が生きていくための衣食住─その生産と生産関係を土台と見ます。つまり、社会の土台は経済ということです。この経済の仕組─生産関係で、社会は大きくわけて次のように発展してきたし、する、としています。
原始共産制─奴隷制─封建制─資本主義─社会主義
※ 私は、これを書く前に福間中学校で
使っていた社会の教科書を通読して
みましたが、この史的唯物論の立場が
うかがわれる内容でした。つまり、
史的唯物論は常識になってきている、
というわけです。
経済学
マルクス主義というと、多くの人が経済学と考えているほど、経済学は、科学的社会主義にとっては要になる分野です。マルクス・エンゲルスは、現実の資本主義社会を研究することによって、社会主義社会への道に到達するのですから。
私の理解の範囲を極めて単純化してのべます。
資本主義社会(※資本主義という呼び名の名付け親はマルクスです)は市場経済です。商品を売買します。そこでどうして利潤が生れるか、十九世紀はじめの経済学者は誰もそれを見つけることができませんでした。それを発見したのがマルクスです。利潤の源泉は人間の労働力にあると。
資本主義社会では、人間の労働力も売買の対象になります。資本家は、労働者がくらしていくのに必要な金を支払って労働者を雇います。ところが労働者は働くことによって自分が生活していくために必要な価値(賃金)以上のものをつくりだします。この差を剰余価値といい、これが資本家の利潤になるのです。
図で説明します。
┃←労働者が一日につくりだす価値→┃
a─・─・─・ー・-─b─ー・─・─・─c
必要労働時間(a) | 剰余労働時間(b)
賃金として支払れる| 資本家の利潤になる
|
a分のb を剰余価値率といい、搾取の度合いを示します。(私が二〇年以上前に読んだ本では、ある学者が一九五〇~六〇年代の日本の搾取率は三倍くらいになる、と計算していました)
資本主義社会の「資本」は、個々の人間の意志にかかわりなく、「資本の魂」として最大限の利潤を追求し、「生産のための生産」に走ります。剰余価値率を高めるため、どんなことでもしてきます。(いまの日本を見るとよくわかります。賃金を下げるため正社員をへらし、パート、派遣、偽装請負──結婚もできない、ワーキングプアが異状でなくなる──)
人間が人間として真っ当な生活をすることができなくなる、なのに「資本」は「生産のための生産」に走り、「恐慌」をひきおこします。
未来社会論=社会主義
欲しくてもまずしいが故にものを手にすることができない人をどんどんつくり出しながら、片一方では利潤追求のための生産のための生産に走る、そこでおこる恐慌、これは、利潤追求第一の資本主義体制では、その「生産」を人間全体の幸せのためにコントロールすることができないことを証明している。
どうしたらよいか、利潤第一の生産でなく、人間とその社会全体の幸せのためにの生産にかえることが必要だ。そのために、工場や機械などの生産手段を社会全体のものにしていこう、これを土台に人間は「各個人の完全で自由な発展を基本原理とする」共同社会をつくることができる。搾取され、組織されている労働者階級こそ、この共同社会をつくる力だ。簡単にいうと、こういうことになりますが、この「社会主義」については、日本共産党綱領の説明のとき、よりくわしくのべたいと思います。
「はじめに」終わりーーーひとみ