父の遺言④の3

3、敗戦――私の戦後の出発と岩下俊作さん

 一九四五年九月、私は、長崎針尾島から復員しました。降りたった八幡駅前は一面の焼野が原でした。幸い、わが家のある大蔵方面は残っていました。
これからどうするか、もちろん職場には出勤しはじめましたが、とにかく、日本が負ける、という想像だにしなかった出来ごとにぶつかったのです。これからどんな人生になるか、どんな人生を歩んだらよいか、迷いました。
 養成工時代の機械の先生に八田秀吉という人がいます。映画「無法松の一生」の原作「富島松五郎伝」の作者、岩下俊作さんです。残暑きびしい日、小倉に岩下先生をたずねました。岩下先生から「これから何をするにせよ、共産党宣言くらい読んでおくことが大事だ。弁証法も勉強しておかないと」とおしえられました。これが、戦後の私の人生を方向づけました。
 アカハタを読み、科学的社会主義関係の本に接するようになります。しかし、十二人弟妹の長男です。入党するにはためらいがありました。日本共産党に入党したのは、一九四六年十一月です。しかし、翌四七年には、党専従の道に入りました。


4、戦後のたたかい

日米安保体制はアメリカの全面占領下に生みだされた

 入党して一番にぶつかったのが、二・一ストの禁止です。それまで、ポツダム宣言にもとづく占領軍として日本の民主化につとめていたGHQが、アメリカ帝国主義の本性を本格的に顕す出発でした。

 ※GHQが、こうなる予兆は天皇問題にありました。
   天皇は大日本帝国憲法によっても国の元首であり、
   軍の最高責任者「大元帥」でした。
   戦争の節目節目の方針は、天皇も出席した御前会議で
   きめられていました。そして、戦争の目的は現人神のもとの
   八紘一宇です。天皇は、二〇世紀の戦争違法化の流れにさからった
   A級戦犯的存在だったのです。(当時、私にはそういう認識はなかった
   のですが、それでも天皇は責任をとってやめるもの、と思っていました。
   やめて何をさせるか、何もしきらないだろうから皇大神宮の神主でも
   させるか、など考えていました) それは、連合国大半の意志でした。
   アメリカの与論調査でも天皇については、処刑三三パーセント、裁判で
   決定十七パーセント、追放九パーセントで、七割が天皇戦犯説でした。
   (天皇は、世界にたいしては A級戦犯でも 日本国民からみると
   超A級戦犯ではないか、と私は思っています。なぜなら、
   近衛文麿上奏〈一九四五年二月、近衛文麿が〝もう敗戦必至だから、
   ここで降伏しましょう〟 と提案した〉 を「もう一度戦果を挙げてから」
   と天皇が蹴ったからです。この時、戦争をやめておけば、
   東京大空襲をはじめ全国的空襲も、沖縄戦もヒロシマ・ナガサキも
   なく、百万近い日本人の命が救われたのですから)
   その天皇を、マッカーサーは、〝百万の軍隊に匹敵する〟 といって
   戦犯からはずし、人間宣言をさせ、アメリカの占領に協力させました。

 それ以降、GHQは、直接に、あるいは日本政府に命令して、労働運動、民主主義運動を弾圧してきました。日本共産党の活動も常に監視下でした。私たちが党会議(地区の大会)をひらいている会場のまわりを、カービン銃を肩にMPがぶらぶらする、といったこともありました。この頃、私は二回逮捕されましたが、二回とも占領軍命令違反で、一回は直接の軍事裁判でした。(一回はデモ禁止令違反、一回は「アカハタ」発行停止関係)
 日本共産党は、大会で、行動綱領のトップに「ポツダム宣言の厳正実施」「人民による経済復興と日本の完全な独立」をかかげました。しかし、直接にアメリカを名指して批判できません。アメリカを指すときは、国際独占資本とよんでいました。
 中国革命がすすむと、アメリカは、いよいよ日本をアジアの反共基地にする態度をつよめてきました。のちにわかったことですが、一九四七年、アメリカ軍首脳は、どうしたら日本に軍隊をもたせることができるか、をねっていました。一九四八年一月、アメリカのロイヤル陸軍長官は、日本を極東における 〝反共の防壁〟 にする、と演説しました。一九四八年十二月、A級戦犯の刑も決り、七人が処刑されると岸信介(のち総理大臣、安倍前首相の祖父)をはじめとするA級戦犯を釈放し、政・財界をはじめ、軍人、特高警察まで、公職追放をつぎつぎに解除しました。
 一方で下山事件、松川事件などがおき(真犯人はアメリカといわれながら犯人はつかまっていない)一大反共キャンペーンのなかで、大量の労働者の首切り、労組への弾圧が強行されました。一九五〇年、マッカーサーは、全国で集会・デモを禁止しておいて、共産党幹部の追放と「アカハタ」発行停止を命じました。職場から共産党員と活動家の追放を命令しました。(レッド・パージ)
 こうして、日本中が戒厳令さながらという状況をつくり、アメリカの意見にしたがう国が中心になって、サンフランシスコ講和会議が結ばれ、即、アメリカ一カ国の永久占領手続ともいうべき日米安保条約が押しつけられたのです。
 いまにつづく日本の戦後政治の源流は、こうしてアメリカの全面占領下につくられました。

② 安保。三池の闘争と党綱領の確定

 一九五〇年から五年間、ソ連、中国の共産党にひっかきまわされて分裂状態にあった党は、日本のことは日本の党での立場(自主独立路線)を確立しながら、党の団結をとりもどし、一九五八年に第七回党大会を開き、新しい党綱領の討議をはじめました。新しい綱領は、六〇年の安保、三池のたたかいを経験し、一九六一年、第八回大会で決定されました。
 綱領は「現在、日本を基本的に支配しているのは、アメリカ帝国主義と、それに従属的に同盟している日本独占資本である。わが国は、高度に発達した資本主義国でありながら、国土や軍事などの重要な部分をアメリカ帝国主義ににぎられて事実上の従属国となっている」と日本を分析、「アメリカ帝国主義と日本の独占資本の支配に反対する新しい民主主義革命」これを国民共同の力─統一戦線で国会の多数を得る道でなしとげる、としていました。この 〝アメリカ帝国主義と日本の独占資本の支配に反対する民主主義革命〟 の路線は、発達した資本主義の国の革命は社会主義革命だ、と固執する日本国内の左派(社会党など)からも、世界の共産党からも反対されました。(日本国内の社会主義革命論者は、日本におけるアメリカ帝国主義の支配から目をそらす、つまり、日本の社会進歩と発展の前進のため避けることのできぬ相手から逃げるものでした)
 しかし、あれから約半世紀、政治勢力としてはゼロに近かった日本共産党が、真の日本改革を提案しうる唯一の政党として日本の国政上に存在し、世界の共産党の中で光彩を放っていることは、61 年綱領路線の正しさにあります。

    ※ 日・米安全保障条約

   日本の近・現代史上最大の屈辱は、日米安保条約と、それが
  半世紀もつづいていることです。
  60年の安保改訂では、それまであった、アメリカ軍は日本国内の内乱
及び騒じょうを鎮圧するためにも出動するとあったのをはずしましたが、
日米共同作戦や軍備増強、経済協力など、より全面的に協力させる
従属体制強化の条約にしました。
安保条約の各項目を、わかりやすく紹介します。

  第二条(日本は)経済協力しなければならぬ。
  第三条(日本は)軍備を増強せねばならぬ。
  第四条(この条約の適用範囲は)極東にも。
  第五条(日本は)日本にいるアメリカ軍と共同作戦をとらねばならぬ。
  第六条(日本は)アメリカが要求するなら日本中どこでも基地として
      提供せねばならぬ。(全土基地方式)
  第十条 この条約は、十年たって、どっちかの国がやめようといったら
      一年でやめることができる。

③ 綱領決定後のたたかい

  イ、日本共産党の存在意義

 私が福間の住民になったのは一九五七年(昭和三十二年)です。安保闘争がはじまりました。私は、教祖、全逓[ぜんてい]、名糖労組、全日自労などによびかけて(社会党はありませんでした) 九大の得本先生を講師に安保学習会をしました。町の公民館いっぱいの盛況でした。綱領確定後の一九六三年に、福間町ではじめての日本共産党町会議員になりました。日本共産党は綱領討議の段階から「二本足の党活動」といって、大衆闘争と党勢拡大を固く結びつけて活動するスタイルを強調していました。町会議員の活動もそうでした。ともかく家に電話をひき、24 時間、かけこみ訴えに応じる態勢をとりました。町会議員の活動として、われながら思い出にのこることは、「あんた百姓議員か」といわれた程、農業問題をとりあげたことです。安保条約第二条の「経済協力」をアメリカが農業部門でおしつけはじめた時期で「構造改善」事業がはじまっていました。そのためか、保守的な農村出身の議員さんと仲がよく、「吉田君、今度はこの問題をとりあげてくれんな」と要求をもちこまれることもありました。もちろん日本共産党全体としては、それこそ多面的にいろんな問題にとりくみました。大会決定 〝わが党の存在意義そのものは、なによりもその時期、時期の国民のもっとも切実な利益と安全に奉仕するということ〟 の実践です。
 しかし、日本共産党の立党の精神は、「つねに、日本国民の当面する現実の苦難の軽減と国民の生命と安全の擁護、新しい合理的な日本の建設、世界平和の擁護という課題のために献身するということ」です。この目的達成からみれば、あまりに党は小さすぎました。

党勢拡大の活動

 「入党してから党勢拡大と選挙ばっかりやった」と60 年代に入党した党員がボヤいていたことがあります。本当はそうではないんですが、それくらい綱領をきめてからは、党勢拡大にとりくみました。綱領で、アメリカ帝国主義の支配と日本独占資本の支配に反対する政府をつくるときめても、衆議院で三名、ではどうにもなりません(この時、自民党二九六名、社会党一四五名、民社党十七名)。綱領をきめた第十一回党大会で、「党勢拡大と思想教育活動の総合二ヵ年計画」をたてて活動することをきめました。六〇年代、どのくらいのスピードで拡大したか、数字をしめします。

       党員    「赤旗」読者
  一九六一年 七万人   十数万人
     (一九六三年 衆議選─得票一六四万、当選五人)
  一九七〇年 三〇万人  二〇〇万人
     (一九七二年 衆議選─得票五六三万、当選三九人)

 当時の党の活動をリアルに知っていただくため、のちに私が党支部のニュースに連載した「赤旗と私」の一部抜粋を紹介します。


「町会議員は『赤旗』をふやす道具」

 福間で「赤旗」読者が飛躍的にふえたのは、一九六三年(昭和三八年)
私が町会議員に当選してからです。九変も福間に移ってきていました。
党中央は「地方選挙の成果のうえにたって人民とともにさらに前進しよう」と
6月・7月を、日曜版を60 万部にする「日曜版拡大月間」ときめました。
38 才の私は、はりきっていました。まずは役場からと、町長・助役と上から
順々にすすめていきます。「わしゃ田代文久と東筑で一緒やった」、そういって
町長が読者になりました。Yさんの協力もあって職員の三分の一は読者に
なったのではなかったでしょうか。町会議員も半分以上が読者になりました。
大和町の商店街も軒なみ訪問しました。
その成果だけではないでしょうが 〝大和町では、なぜ反共意識が低いか〟
九大から調査に入ったこともあります。当時、私は、〝町会議員とは、
「赤旗」をふやす道具〟 と自認していました。


「プレハブにて」

 私は、町会議員になる前の年に二度目の常任活動にはいっていました。
当時は一区全部が福岡地区で、地区と支部の間の組織は、いろいろと
かわりました。3号線関係の党組織が、五ブロック?として福岡地区の
先進部隊の役割をはたした時代もありました。「電波」「高千穂」「九変」
「宗像教員」など経営支部は、大戦力でした。「拡大月間」ともなると
毎晩十一時頃 私の家のプレハブにぞくぞくと集まります。
点検会議です。私は模造紙一枚に支部ごとの今日の目標をかき、カベに
はりつけて待っています。今日は何部ふえたか、教訓は─、報告が
すんだら明日の目標です。「なんでそれだけか」「それで『月間』目標が
達成できるか」、いわゆる〝つめ〟 がはじまります。せっぱつまって
支部長が決意をこめた目標をだしてしまうのが一時すぎ、ということも。
そして私も町会議員です。人を 〝つめる〟 ばかりではすみません。
自分の目標をどう達成するか、必死です。夜が白みはじめるのを待って、
上西郷や神興の農家にでかけ、ふやしたこともありました。



 綱領第二章 現在の日本社会の特質

(四)第二次世界大戦後の日本では、いくつかの大きな変化が起こった。

 第一は、日本が、独立国としての地位を失い、アメリカへの事実上の従属国の立場になったことである。

 敗戦後の日本は、反ファッショ連合国を代表するという名目で、アメリカ軍の占領下におかれた。アメリカは、その占領支配をやがて自分の単独支配に変え、さらに一九五一年に締結されたサンフランシスコ平和条約と日米安保条約では、沖縄の占領支配を継続するとともに、日本本土においても、占領下に各地につくった米軍基地の主要部分を存続させ、アメリカの世界戦略の半永久的な前線基地という役割を日本に押しつけた。日米安保条約は、一九六〇年に改定されたが、それは、日本の従属的な地位を改善するどころか、基地貸与条約という性格にくわえ、有事のさいに米軍と共同して戦う日米共同作戦条項や日米経済協力の条項などを新しい柱として盛り込み、日本をアメリカの戦争にまきこむ対米従属的な軍事同盟条約に改悪・強化したものであった。

 第二は、日本の政治制度における、天皇絶対の専制政治から、主権在民を原則とする民主政治への変化である。この変化を代表したのは、一九四七年に施行された日本国憲法である。この憲法は、主権在民、戦争の放棄、国民の基本的人権、国権の最高機関としての国会の地位、地方自治など、民主政治の柱となる一連の民主的平和的な条項を定めた。形を変えて天皇制の存続を認めた天皇条項は、民主主義の徹底に逆行する弱点を残したものだったが、そこでも、天皇は「国政に関する権能を有しない」ことなどの制限条項が明記された。

 この変化によって、日本の政治史上はじめて、国民の多数の意思にもとづき、国会を通じて、社会の進歩と変革を進めるという道すじが、制度面で準備されることになった。

 第三は、戦前、天皇制の専制政治とともに、日本社会の半封建的な性格の根深い根源となっていた半封建的な地主制度が、農地改革によって、基本的に解体されたことである。このことは、日本独占資本主義に、その発展のより近代的な条件を与え、戦後の急成長を促進する要因の一つとなった。

 日本は、これらの条件のもとで、世界の独占資本主義国の一つとして、大きな経済的発展をとげた。しかし、経済的な高成長にもかかわらず、アメリカにたいする従属的な同盟という対米関係の基本は変わらなかった。

 (五)わが国は、高度に発達した資本主義国でありながら、国土や軍事などの重要な部分をアメリカに握られた事実上の従属国となっている。

 わが国には、戦争直後の全面占領の時期につくられたアメリカ軍事基地の大きな部分が、半世紀を経ていまだに全国に配備され続けている。なかでも、敗戦直後に日本本土から切り離されて米軍の占領下におかれ、サンフランシスコ平和条約でも占領支配の継続が規定された沖縄は、アジア最大の軍事基地とされている。沖縄県民を先頭にした国民的なたたかいのなかで、一九七二年、施政権返還がかちとられたが、米軍基地の実態は基本的に変わらず、沖縄県民は、米軍基地のただなかでの生活を余儀なくされている。アメリカ軍は、わが国の領空、領海をほしいままに踏みにじっており、広島、長崎、ビキニと、国民が三たび核兵器の犠牲とされた日本に、国民に隠して核兵器持ち込みの「核密約」さえ押しつけている。

 日本の自衛隊は、事実上アメリカ軍の掌握と指揮のもとにおかれており、アメリカの世界戦略の一翼を担わされている。

 アメリカは、日本の軍事や外交に、依然として重要な支配力をもち、経済面でもつねに大きな発言権を行使している。日本の政府代表は、国連その他国際政治の舞台で、しばしばアメリカ政府の代弁者の役割を果たしている。

 日本とアメリカとの関係は、対等・平等の同盟関係では決してない。日本の現状は、発達した資本主義諸国のあいだではもちろん、植民地支配が過去のものとなった今日の世界の国際関係のなかで、きわめて異常な国家的な対米従属の状態にある。アメリカの対日支配は、明らかに、アメリカの世界戦略とアメリカ独占資本主義の利益のために、日本の主権と独立を踏みにじる帝国主義的な性格のものである。

 (六)日本独占資本主義は、戦後の情勢のもとで、対米従属的な国家独占資本主義として発展し、国民総生産では、早い時期にすべてのヨーロッパ諸国を抜き、アメリカに次ぐ地位に到達するまでになった。その中心をなす少数の大企業は、大きな富をその手に集中して、巨大化と多国籍企業化の道を進むとともに、日本政府をその強い影響のもとに置き、国家機構の全体を自分たちの階級的利益の実現のために最大限に活用してきた。国内的には、大企業・財界が、アメリカの対日支配と結びついて、日本と国民を支配する中心勢力の地位を占めている。

 大企業・財界の横暴な支配のもと、国民の生活と権利にかかわる多くの分野で、ヨーロッパなどで常識となっているルールがいまだに確立していないことは、日本社会の重大な弱点となっている。労働者は、過労死さえもたらす長時間・過密労働や著しく差別的な不安定雇用に苦しみ、多くの企業で「サービス残業」という違法の搾取方式までが常態化している。雇用保障でも、ヨーロッパのような解雇規制の立法も存在しない。

 女性差別の面でも、国際条約に反するおくれた実態が、社会生活の各分野に残って、国際的な批判を受けている。公権力による人権の侵害をはじめ、さまざまな分野での国民の基本的人権の抑圧も、重大な状態を残している。

 日本の工業や商業に大きな比重を占め、日本経済に不可欠の役割を担う中小企業は、大企業との取り引き関係でも、金融面、税制面、行政面でも、不公正な差別と抑圧を押しつけられ、不断の経営悪化に苦しんでいる。農業は、自立的な発展に必要な保障を与えられないまま、「貿易自由化」の嵐にさらされ、食料自給率が発達した資本主義国で最低の水準に落ち込み、農業復興の前途を見いだしえない状況が続いている。

 国民全体の生命と健康にかかわる環境問題でも、大企業を中心とする利潤第一の生産と開発の政策は、自然と生活環境の破壊を全国的な規模で引き起こしている。

 日本政府は、大企業・財界を代弁して、大企業の利益優先の経済・財政政策を続けてきた。日本の財政支出の大きな部分が大型公共事業など大企業中心の支出と軍事費とに向けられ、社会保障への公的支出が発達した資本主義国のなかで最低水準にとどまるという「逆立ち」財政は、その典型的な現われである。

 その根底には、反動政治家や特権官僚と一部大企業との腐敗した癒着・結合がある。絶えることのない汚職・買収・腐敗の連鎖は、日本独占資本主義と反動政治の腐朽の底深さを表わしている。

 日本経済にたいするアメリカの介入は、これまでもしばしば日本政府の経済政策に誤った方向づけを与え、日本経済の危機と矛盾の大きな要因となってきた。「グローバル化(地球規模化)」の名のもとに、アメリカ式の経営モデルや経済モデルを外から強引に持ち込もうとする企ては、日本経済の前途にとって、いちだんと有害で危険なものとなっている。

 これらすべてによって、日本経済はとくに基盤の弱いものとなっており、二一世紀の世界資本主義の激動する情勢のもとで、日本独占資本主義の前途には、とりわけ激しい矛盾と危機が予想される。

 日本独占資本主義と日本政府は、アメリカの目したの同盟者としての役割を、軍事、外交、経済のあらゆる面で積極的、能動的に果たしつつ、アメリカの世界戦略に日本をより深く結びつける形で、自分自身の海外での活動を拡大しようとしている。

 軍事面でも、日本政府は、アメリカの戦争計画の一翼を担いながら、自衛隊の海外派兵の範囲と水準を一歩一歩拡大し、海外派兵を既成事実化するとともに、それをテコに有事立法や集団的自衛権行使への踏み込み、憲法改悪など、軍国主義復活の動きを推進する方向に立っている。軍国主義復活をめざす政策と行動は、アメリカの先制攻撃戦略と結びついて展開され、アジア諸国民との対立を引き起こしており、アメリカの前線基地の役割とあわせて、日本を、アジアにおける軍事的緊張の危険な震源地の一つとしている。

 対米従属と大企業・財界の横暴な支配を最大の特質とするこの体制は、日本国民の根本的な利益とのあいだに解決できない多くの矛盾をもっている。その矛盾は、二一世紀を迎えて、ますます重大で深刻なものとなりつつある。


 日米安保条約廃棄の緊急重大性については、二〇〇六年の第24 回大会決議が、より具体的に分析していますので、巻末に別紙として添付しました。

                                つづく


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