父の遺言④の4

  ハ ソ連共産党、中国共産党(毛沢東派)とのたたかい


 ソ連共産党とのたたかいの発端は、原水爆禁止問題でした。ソ連はアメリカ・イギリスと部分的核実験停止条約をむすび、これが核兵器全面禁止への道と。(いま、この道がいまなお二万数千発の核弾頭保有への道だったことが証明されている)世界の共産党にもおしつけてきました。これに反対する日本共産党内に「ソ連派」を旗上げさせました。
 中国共産党の毛沢東は、日本共産党が、中国流の「反ソ」や「人民戦争」路線に組しないと 〝アメリカ帝国主義、ソ連修正主義、日本反動派、日本共産党〟 を四つの敵とし、日本共産党の大がかりな分裂工作をはじめました。
 ソ連、中国共産党とのたたかいは、日本国内のソ連派・中国派とのたたかいというだけでなく、ソ連・中国が共産党にあるまじき行動にでるたびに、それがいかに間違っているかについての理論的なたたかい、そして日本共産党の立場についての日本国内での宣伝が必要でした。大きなエネルギーがいりました。
 ソ連共産党とのたたかいは、実質、ソ連共産党解散まで続きました。中国共産党とは、一九九八年、中国共産党が全面的に非をみとめて正常化しました。
 当時の世界の二大共産党、それも政権党とのたたかいは日本共産党の自主独立路線の正しさをあらわすとともに、いま世界で、日本共産党へよせられる信頼のよりどころともなっています。また、このたたかいで、日本共産党は理論面で大きな前進をとげることができました。

  ニ 日本国内での反動勢力(アメリカ帝国主義と大企業・財界の
    支配維持派)とのたたかい


 国内での政治的転機は一九七〇年代におきました。日本共産党は党員で三十万、「赤旗」読者で二百万を突破し、一九七二年の総選挙では五六三万票・三九名の当選者、野党第二党となりました。(自民二七一、社会一一八、公明二十九、民社十九、沖縄人民党一、その他十四)日本共産党の本格的な政治舞台への進出は、社会・公明・民社などの中間政党の左へのゆれをおこしました。どの政党も 〝連合政府〟 をとなえはじめました。公明党ですら安保即時廃止をいいだしました。
 これにおどろいた反動派からの本腰いれた戦略的な反共活動が開始されます。
職場の共産党員への徹底した攻撃、労働者の企業意識や労資協調主義の育成強化、ソ連・中国を引合いにだしての「自由社会を守れ!」のキャンペーン、マスコミも動員されました。(一九七三年から七六年十月までに雑誌がとりあげた日本共産党批判・中傷記事は五百数十件、二億数千万部)
 きわめつけは、一九八五年にはじまる「宮本人殺し」中傷でした。戦前というより本格的中国侵略戦争真っ最中の一九三三年、治安維持法下で逮捕・投獄された宮本顕治さんを中傷・誹謗し日本共産党のイメージダウンを図る大作戦行動でした。そのデタラメさ、エゲツなさに国民的反撃がおこり、自民党政府の法務大臣すら、国会で、「この問題は法的に決着ずみ」といわざるを得ないほどでした。

 反共土壌がつちかわれるなかで、政治の舞台での共産党排除がつぎつぎとねられ、実行されてゆきました。一九八〇年、公明党と社会党の間で、日本共産党排除、安保条約・自衛隊容認の連合政権構想が合意されます。これから、国政の場でのオール与党化がすすみました。反共のオール与党政治でも自民党政治はもちこたえきれませんでした。自民党は分裂します。一九九三年・細川内閣、九四年には村山内閣となります。(細川内閣のもとで、自民党多年の宿願であった小選挙区制が実施されます)自民党は政権党に復帰したものの、もう一党単独で内閣はつくりきりません。それも「自民党をぶっこわす」と叫んで総理大臣にならねばならぬほどの危うさです。ここから、財界総応援の「二大政党制」です。
 日本共産党は、この三十年間、ソ連・中国の共産党とたたかい、日本の反共攻撃とたたかい、「国民の切実な利益と安全に奉仕する」活動にとりくんできました。しかし、三十万の党員では、綱領実現への大前進というわけにはゆきませんでした。選挙でも一進一退をくりかえしました。
 そして、21 世紀をむかえました。

             戦前と戦後の日本――体験的に・・・・・終わり


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