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戸田さん、シベリアに抑留されていた方の話を聞きに




11月2日、恒例の新婦人高齢者を囲むつどいが。
新婦人の会員さん・家族が囲まれたり囲んだりよ。
今年のメインは、先日NHKで放送されたシベリア抑留者の話を聞くこと。
戸田さんのお父さんもよ。ちっちゃい時から聞かされていたんだって。
事務所はみ~んなそっちに行き、ひとみちゃんが留守番よ。
もちろん戸田さんもお話を聞きにね。

楽しそうに話しているなあ    ツーショットといいたいけれど、知らない人との3人組から2人だけを


聞きたかったなあ、と思いながら日刊紙を。そしたらシベリア抑留の記事が。
すごい偶然やね~
記事スキャンするより、みんなに知ってほしかったきデータベースで
見れるまでまっとったと。まっとう間に忘れるとこやったけどね

じゃ、コピーするばい  

戦後65年/伝えよう侵略戦争の真実/
     シベリア抑留/上
/草の根食べ鉄道敷設2010.11.02 日刊紙 


 笹田克己さん(88)=三重県菰野町=は、2006年に地元の9条の会に招かれて抑留体験を話しました。以来、町主催の「平和祈念トーク」などさまざまな場所で、「人が人として扱われず死んでいく戦争、もう二度とあってはならない」と体験を語ってきました。■ソ連兵が銃を 笹田さんは1939年に中国・奉天の424部隊に入隊しました。45年8月8日、侵攻してきたソ連軍の戦車に降伏。終戦を迎えました。
 ソ連のナホトカ経由で日本に帰ろうと、手袋や靴下を詰めこんだ大きな荷物を持ち、ソ連の貨物列車に乗りこみました。
 しかし、列車は西へ向かい、丸2昼夜かかってエスベストコーバヤ駅に着きました。さらに一昼夜、飲まず食わずで歩き続け、山深い奥地の収容所に。
 鉄道のレールを敷設する労働。他の班が伐採した後に、日本の枕木の3倍ぐらいの太さの枕木を敷きます。大変なのが、長いレールを設置する作業でした。
 「10人ほどで息を合わせて持ち上げるのですが、みんな腹がすいて力が入らない。ソ連兵が『早くしろ』というように、銃を構えてせかしていた」 作業の途中で動けなくなる仲間もいました。
 「私たちには助ける余裕なんてない。そのまま置いていった。見殺しです」 1日16時間近く働いたのではないか、と言います。食事は、昼は200〓ぐらいの薄い黒パン、夜は黒パンか少々の雑穀のおかゆ。野草を探し、その根を缶で煮て食べました。1週間もたたないうちにやせ衰え、あばら骨が浮き出しました。厳しい労働の一方、十分な食事も、眠るときかぶる物もありませんでした。■零下30度以下 「朝、『なかなか起きてこない』と見にいくと、息絶えている仲間がいた。飢えと零下30度を下回る寒さで、最初の冬を越えて春を迎える間に、仲間が次々と死んでいった。18、19歳の未来ある青年ばかりだった」 地面が硬く凍って掘れないので、ソ連兵は服をはいだ死体を一輪車で裏山に運んで、谷底に捨てました。
 笹田さんは、レール敷設の労働を経て、山中の道路を行き来する自動車の監視活動に約1年8カ月、携わりました。収容所より山奥で、オオカミがうろつく場所。昼はソ連兵が1人来ますが、夜は一人っきりです。山小屋の中で火をたきながら、オオカミに襲われないかと、気が気ではありませんでした。
 その後、さらに、病人ばかりがいる収容所に転送され、「生きて日本に帰ることはない」と思っていた笹田さん。帰国が決まったときは驚きました。しかし、4年のシベリア暮らしで体はすっかり衰弱し、ナホトカの港から引き揚げ船に乗り込むときは、桟橋を四つばいではって上りました。
 「私は『生きる執念の強さ』で生き残ることができた」 戦後65年、抑留体験者が次々と亡くなっています。
 「私は『生かされている』と思っている。生きている限り、体験を語り続けていきたい」 (つづく)


戦後65年/伝えよう侵略戦争の真実/
シベリア抑留/中/
森林伐採、仲間は凍死2010.11.03  


 終戦の半年前、中国東北部のソ連国境近くで彗陽工兵隊に入隊し、爆弾を抱いて地面をはい、ソ連軍戦車へ向かう訓練を続けていた鈴木恒雄さん(83)=愛知県東海市=。「何度も死に直面した」と話します。■小枝が凶器に 19歳だった鈴木さんはソ連兵に森林伐採作業に携わることを命じられ、1945年9月に中国・牡丹江付近からソ連に入りました。すでに雪が降り始めていました。
 2人組で刃の両側に取っ手のついた長さ1〓ほどのノコギリを扱い、直径1〓以上あるマツをひきます。
 「いてつく地域では、なんでも〓凶器〓になる。鉄かぶともなく、直径5〓ほどの小枝でも、頭に当たれば死亡、手足に当たっても骨折です。腰まで雪につかっての作業で、木が倒れる方向が分からず、逃げ切れない者が続出しました」 人知れず雪の中になぎ倒され、凍死していた仲間もいました。鈴木さん自身も、伐採した原木を満載した木製ソリの荷崩れで4〓ばかり飛ばされたものの、下敷きにならずに助かった経験がありました。
 吹雪や冷たい風の日の外気は零下40度。顔にタオルを巻きつけてもまつげやまゆげが凍り、触るとポキポキ折れました。鼻の頭が凍傷で白くなり、手で摩擦してなおそうとすると激痛を伴いました。
 伐採した丸太を組んだだけの収容所はすき間だらけで、暖房は、出入り口と奥の壁の前のまきストーブ2台のみ。蚕棚のような2段ベッドの下段だった鈴木さんは、「毛布2枚にくるまっても寒く、隣の仲間と背中をくっつけ暖をとり合って眠りました」と、話します。
 三度の食事は1枚の黒パンと具のないスープのみ。「いつも腹が減って、つらかった。食事の分配の際は、みんな目の色を変え、見ていました」 空腹を満たすため、大きな松の実を拾って食べました。
 栄養失調、寒さ、伐採中の事故で、最初の冬を越えることなく、多くの仲間が亡くなりました。「私は若さと気力で、なんとか生き延びられました」 春になると、労働は農作業に。バレイショの植え付けのために地面を掘り起こし、あぜをつくりました。
 鈴木さんたちは野草を摘み、収穫し残されたくず芋を拾い、飢えを満たしました。■命あるかぎり 年月を経るに連れ、抑留者の食事内容や待遇は次第に改善されました。
 「忘れられないのは、私がソリから崩れ落ちた原木に吹き飛ばされたときのこと。一番先に助け起こしてくれたのは、ソ連兵でした。絶対的権力をもった天皇が支配していた資本主義国・日本の兵士との違いを感じました」 「人が人を殺す戦争は愚かなこと。戦争をしてはならない」と話す鈴木さん。小学校の元同級生や職場の元同僚に、抑留体験をつづった冊子、「しんぶん赤旗」の「侵略戦争の真実」や沖縄の米軍新基地建設計画に反対する行動の記事のコピーを郵送してきました。八十数人だった同級生の数は年々減り、この夏の同窓会の参加者は11人でした。
 「生きている限り、戦争反対の意思を発していきたい」 (つづく)

戦後65年/伝えよう侵略戦争の真実/
シベリア抑留/下
監視され続けた人生2010.11.04  


 終戦まで「関東軍」情報部で、補助憲兵として情報収集やスパイの取り締まりをしていた朝田巖さん(89)=宮城県大崎市=。ソ連・タイセットから、さらに55〓の奥地でシベリア第2鉄道敷設のための森林伐採の労働に従事。飢えと厳寒の中を生き延び、1948年10月18日、京都・舞鶴港に帰国しました。
 しかし朝田さんを待っていたのは、「シベリア帰り」としてのスパイ容疑でした。■港では尋問が 港に着いた夜、朝田さんは兵舎2階の一室に呼び出されました。写真と指紋がとられた後、「ハラダ」と名乗る日系2世の進駐軍兵士が、「捕虜になる時、偽名を語り、それがばれたことがあっただろう」「ソ連が黙っておまえを帰国させるわけがない。何か約束して帰ってきたはずだ」などと尋問します。朝田さんが、「何も約束していない」と否定しても、聞く耳をもちません。
 「ハラダ」は、子ども用の木のいすに腰掛けた朝田さんの太ももの上に向かい合うように馬乗りになり、「何を約束してきたんだ。正直に言え」と責めます。体重をかけて、朝田さんの背中をいすの背板に押し付けました。
 「最初は『何も約束していない』と否定していたのですが、後はただ黙って痛みに耐えるしかありませんでした」。朝8時すぎから夜10時近くまで、食事と少しの休憩を除き2日間、尋問が続きました。
 入隊前、中国東北部で日本人学校の教師を務めていた朝田さん。「一生、おまえを監視し続ける。二度と公職(教職)には就かせない」と解放されました。
 その後、朝田さんは、香川県の実家に3日間滞在。土建会社経営の長兄を岩手・平泉町に訪ね、経理の仕事を始めました。
 半月後、駐在所の呼び出しに応じて出向くと、3人の進駐軍兵士が待ち構えていました。
 「尋問はされませんでしたが、『ソ連から連絡があったら、私たちに知らせなさい』と、その方法を約束させられました」 翌49年4月、結婚し、同県陸前高田市に転居。しかし、そこにも連絡が入り、盛岡市に呼び出されました。以降、1カ月に1回、盛岡や仙台に呼び出され、抑留時のソ連部隊や兵舎の様子を聞かれました。進駐軍の本部が東京に移ってからは、一昼夜かけ都内に通いました。
 「呼び出しの内容は、家族にもだれにも話すな」と言い渡され、妻にも理由を述べず表情のない顔で出かける朝田さ
ん。妻のマレ子さんは、「とても不気味な感じを受けました」と振り返ります。■教職に戻れず 「呼び出しは今日で終わりだ」と告げられたのは、56年のことでした。
 「転居をくり返しても、呼び出しが追いかけて来る。ハラダに言われた『一生、おまえを監視してやる』の言葉が頭を離れませんでした。『いつ殺されるか』と常に不安でした」 その後、朝田さんは薬種商の資格をとり、のちに自分の店を持つまでになりました。
 「結局、教職に戻ることはできませんでした。いまも悔いが残ります。たくさんの人に死と悲しみをもたらし、人生を狂わせる『侵略戦争』。私もその被害者の1人だと思います」 (この項おわり) (川田博子が担当しました)




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> 単位が表示されていると思われる数ヶ所が「=」の表示になっています。

そのうち、日刊紙を見て、訂正を、と思ってはいるのですがv-390
2010/11/19 00:10 URL by 松尾 ひとみ [ 編集] Pagetop△
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2010/11/15 22:42 URL by [ 編集] Pagetop△
ありがとうございます。












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